多様性を尊重する令和時代~当たり前なんてない~

コミュニケーション講座 プライベート日常

こんにちは、最近スムージーにはまっている

マインドームインストラクター第一期生の明楽です。

 

 

本日はマインドームインストラクター講座第3回目

「コミュニケーション講座」を受講してきました。

 

コミュニケーション講座

 

コミュニケーションの土台にある

一人ひとりの判断基準。

 

 

生まれた時代、国、地域、家族、環境などによって

受ける教育や文化も違うため

判断基準は誰もがバラバラであることが当然。

 

 

 

今の時代はどんな時代とみることができるでしょうか。

そんなことをふっと考えていました。

 

 

 

ダイバーシティやSDGsなど

多様性を受け入れていくことが必要とされる時代。

 

 

まさに一人ひとりの判断基準が受け入れられる時代です。

 

実際のところそれができているかどうかは置いておいて

誰もが主義主張を認められている、良い時代だと私は考えます。

 

 

 

「当たり前」という言葉が、私はあまり好きではありません。

 

この世に絶対という存在はないので、当たり前なんてないだろう!

 

と、昔からよく主張していました。

 

当たり前なんてないのが当たり前だっ!てどや顔で語ったものです。

 

 

その「当たり前」をどう考えるか

私が好きなNohJesu令和哲学シリーズ15に面白いことが書かれていました。

 

 

まず「当たり前」を「当たり」+「前」と分解し観察してみましょう。

はじめに、「当たり」とはどういうことでしょうか?
「当たり」という状態になるためには、何かと何かが当たることが必要です。
つまり「当たる」ということは、「出会い」または「究極の出会い」を表す言語であり、今までにない新しい出会いが必要です。この出会いによって、何かが始まる必要があり、存在する必要があります。「当たる」ためには、まず自分が存在をしたり、存在感を持たない限り、当たることはできません。

次に、「前(before)」をみてみましょう。
「当たり+前」を統合した「当たり前」は、存在(感を持つ)前の状態、すなわち存在不可能な状態を表します。
存在不可能状態から存在可能状態に移動することによって、新しいスタートが誕生する「当たり(出会い)」が成り立つのです。

 

「当たる」と「前」をバラバラに解析して、こういう捉え方をしているのは斬新!

 

当たる前。

すなわち存在の前が絶対であるという概念には納得ができます。

 

すべての存在は相対関係から成り立つものであるため、無存在は絶対である。

 

なるほど!と思います。

 

nTech(認識技術)を使えばこれはすんなり理解できます。

 

 

こう考えると、日本語って本当に凄いなって最近思うのです。

 

言葉を開発していた昔の日本人は、どれだけ繊細で悟っていたのだろう。

 

日本の奥ゆかしさを海外の方々が求める意味も最近になって分かってきました。

 

当たり前の心

 

常に相手も自分も決めつけない

その心で誰もが今を生きていけると

戦争いじめ差別も自然となくなるのだろう。